トップ  予約  メールで問い合わせ(kobama@sea-town.jp) 電話予約(9時〜12時・14時〜20時 0772-72-2659)

浦島太郎と乙姫様さんが祭ってある「嶋児神社」(しまこじんじゃ)  09/11/16 (月)更新 こばま荘から自転車で7分

網野町は「丹後国風土記」に伝えられる浦島太郎伝説の地。浦島太郎は、後世につけられた名前で、風土記では水江浦嶋子となっています。この浦島太郎を祀る神社が浅茂川の海岸に鎮座する島児神社です。

浦島太郎とカメさんが祭ってある嶋子神社。 釣溜(つんだめ)。自然の岩で囲まれた潮溜まりで浦島太郎がここに釣った魚を放していました。 割烹の宿こばま荘から歩いて2分「八丁浜こばま海水浴場」。浦島太郎が竜宮城から帰ってきて玉手箱を開けた浜。浜を散歩すると浦島太郎と乙姫さんのように仲良くなれると言われています。
神社の横のこの道を登ると 上には、石のベンチがあります。漁港や福島が見えて景色がきれいです。浅茂川漁港の先にある「福島」。浦島太郎と乙姫さんが初めて出会った島。幸福の島ということで「福島」という名前が付きました。横の堤防では、釣り人さんがたくさん釣りをしています。
網野の浦島伝説について詳しく書かれた2冊の本が館内に置いてあります。ご覧ください。 アワビの肝。網野ではアワビのキモを妊婦さんが食べると目の綺麗な赤ちゃんが産まれるという言い伝えもあります。 石造のカメ。「カメを妊婦さんが触ると良い赤ちゃんが産まれる」、「綺麗な手でカメを触ると亀のように長生きする」、「カメの頭を触ると良縁に恵まれる」と八丁浜では言われています。

妊婦さんにもお薦めの浦島伝説

「嶋児神社のカメを妊婦さんが触ると良い赤ちゃんが産まれる」、「綺麗な手で神社のカメを触ると亀のように長生きする」、「カメの頭を触ると良縁に恵まれる」と八丁浜では言われています。ぜひ、触ってみてください。お待ちしております。 また、網野ではアワビのキモを妊婦さんが食べると目の綺麗な赤ちゃんが産まれるという言い伝えもあります。妊婦様には、お薦めの網野への旅です。


浦島太郎の家があった場所。 シワ榎木。玉手箱を開けると年をとってしまいました。
あまりにも驚いた浦島太郎は、顔にできたシワをこの木に投げつけました。

網野の浦嶋子伝説 2009/11/15 (日)更新

むかし、ずっと昔、今の旧網野村が松原村という二つの村にわかれていた頃のお話です。
ここに水の江の長者と呼ばれていた日下部氏の家があり、その頃、この家は二十七か村の支配を許されていたと言い伝えられています。


この水の江の長者、日下部曽却善次の代に夫婦の間に子供が無く、なんとかして子宝に恵まれたいと、百日の祈願をして、毎日天に祈りました。それは、ちょうど満願の夜、夫婦は不思議に同じ夢を見たのです。神の姿があらわれて、二人の心からの願いを聞き届けよう、明朝、福島まで来い、というお告げが聞かれたのであります。

翌朝、二人は嬉んで福島まで出かけて見ますと、生まれたばかりの赤子が毛布にくるんで置かれていました。

さっそく抱いて帰り、嶋子と名付け、大切に育てました。

嶋子は、元気ですくすくと成長しました。

嶋子の館は、銚子山古墳のある丘陵の地つづきにありましたが、成長すると釣りが好きで、毎日釣竿を肩にして出かけてたのです。

その頃、この付近には、すぐ東に接して離湖があり、その頃は、現在の面積の四〜五倍も大きな淡水湖でありました。また、西側には浅茂川湖があって、現在の旧網野町の市街の大半は湖の底であったし、下岡前の沖田田園は、今の網野駅の近くまで拡がった大きな湖であったといいます。もちろん、、水は澄み美しく、魚もたくさんいたことでしょう。

この二湖を、水の江といいました。嶋子は、幼い頃は、この水の江に舟を浮かべて釣りをし、長じては、外海(澄の江)で漁をしていたのです。

澄の江での漁の時は、釣った魚をいったんは海中の釣溜にビクのままつけておいたといいます。

そんなある日、嶋子が福島の白鷲が鼻という浜辺で釣りをしていると、大へん美しい婦人に出会い、それが乙姫様であることがわかりました。声を掛けられた嶋子は一目見て、乙姫様を好きになってしまい、二人は夫婦の約束をしたのだといいいます。

そして、両親のいる竜宮城へ行こうと、乙姫様のたってのすすめにより、二人は小舟で出かけました。

竜宮城に着いてみると、乙姫様の両親はじめ多くの人々に出迎えられ、毎日毎日手厚いもてなしをうけ、楽しい日々を送っていましたので、またたくうちに三年の月日が流れてしまいました。

やがて嶋子は、両親のいる故郷のことを思い出す日が多くなり、打ち沈んでいる姿を見かけた乙姫様は、嶋子の心を察して帰ることを認め、「もし再びここへお出かけになりたくなったら、いつでも来てください。お別れにこの手箱を差し上げます。再びお出で下さるお心持ちがあるなら、決して中をおあけなさいますな。」と言って、美しい玉手箱を嶋子に渡しました。

嶋子は、そのほか数々のお土産物をいただき、舟に乗って懐かしい網野の浜へ帰ってきました。

その帰りついたところは、釣溜のところよりも2キロばかり東北の海岸で万畳浜(八丁浜小浜)だったといいます。

嶋子は、早く両親に逢いたいものとて、我が家への道を急ぎました。ところが道で出会う人々は、みな知らない人ばかり、両親の名を言って尋ねてみても誰一人知っている者はありません。

やっと屋敷までついてみると、これはどうしたことでしょう。もとの家はなく、屋敷跡には雑草がおい茂り、一面の荒野原となっているではありませんか。わずか三年と思ったのですが、何百年もたっていたのです。

嶋子は、なげき悲しみ途方にくれてしまいました。もしやこの際、乙姫様から貰って帰った玉手箱を開けたら、ひょっとすれば、数百年も昔にさかのぼり、昔の故郷があらわれて、両親にも逢えるかもしれない。とそう思い、ついにその箱を開けてしまったのです。

すると、どうでしょう。中から白い煙が立ちのぼるかと見れば、たちまち嶋子の髪は白くなり、顔にもしわができて、すっかりおじいさんになってしまいました。

あまりのことに驚いた嶋子は、思わず自分の頬のしわをちぎっては榎に投げつけました。

嶋子は、その後どうなったのか詳しくはわかりません。

しわを投げつけたという一本榎は「しわ榎」といわれ、日本海を渡ってくる浜風に枝葉をゆるがせて、夏が来ても冬になっても、悠然と立っています。


亀についてのお話

明治34年5月、八丁浜に人の乗れるような大亀が流れつきました。村人が介抱したが生きかえらなかった。人々は、亀の化身である乙姫様が嶋子に逢いたくてわざわざ竜宮からやってきたに違いないと言って、嶋子神社の傍らに手厚く葬って「霊亀の塚」の碑を立てました。(網野の浦嶋子伝説を読んでいただければ分かりますが、物語に亀は登場していません。)


霊亀の塚の碑


2003/05/13 (火)更新

網野町は「丹後国風土記」に伝えられる浦島太郎伝説の地でもある。浦島太郎は、後世につけられた名前で、風土記では水江浦嶋子となっており、この島子を祀る神社が浅茂川の海岸に鎮座する島児神社である。


釣溜(つんだめ)
自然の岩で囲まれた潮溜まりで浦島太郎がここに釣った魚を放していたと言われています。

浦島太郎の石像の横から上に登る分りにくい道がありますが登ると石のベンチがあります。ここから漁港や灯台や海が見渡せます。網野町民でも知っている人は多分少なくて穴場的な場所でカップルにお勧めの場所です?左に町営温泉が見えます。

浦島太郎に会いに来てくださいね。







トップページ